プロフィール
高口洋人|早稲田大学 理工学術院/創造理工学部教授
1970年 京都生まれ、大阪で育つ。1995年早稲田大学理工学部建築学科卒業、1997年同大学院理工学研究科修了。2002年博士(工学)取得。 早稲田大学助手・客員講師(常勤扱い)、九州大学特任准教授を経て2007年より早稲田大学准教授。2012年より教授。完全リサイクル型住宅や家庭用燃料電池の研究に従事。現在、住宅や建築物の省エネルギー対策、新エネルギーの導入促進に関する研究などにも取り組む。著書に「完全リサイクル型住宅Ⅰ、Ⅱ」「地方都市再生の戦略」「都市環境学」「健康建築学」「 民家再生の実例」(いずれも共著)、「ZED Book」(共訳)」「エコまち塾(共著)」「ゼロ・エネルギーハウス―新しい環境住宅のデザイン(共著)」「しくみがわかる建築環境工学 基礎から計画・制御まで(共著)」など。
ーー早速ですが、nojimokuとお知り合いになったきっかけを教えて下さい。
高口 野地さんと知り合う前になりますが、2010年から3年間、地域に根ざした脱温暖化をテーマに、産直型の住宅供給の研究をしていました。流通経路とコストを分析しながら、どこに問題があるのかを明らかにし、天然素材の良さを生かした住宅の提案をしていたんですね。その研究に着目したのが、野地俊行(会長の兄)さんで。俊行さんは、会社を退社して故郷に戻っていたんですが、久しぶりに戻ったふるさとが人口も減って元気がないのを何とかしようと母校の早稲田に相談したところ、僕が紹介されて。論文なども見た上で、相談にやってこられました。
ーーそこからnojimokuとの付き合いが始まったわけですね。ご相談は、具体的にどんな内容だったんですか?
高口 野地さんの最初の依頼は、物流を分析してほしいとかそういう話ではなくて、学生をいっぱいつれてきて欲しい、学生に熊野が何をすればよいのか考えてもらって、刺激を与えて欲しい、というような話でした。僕の研究室の専門は、環境問題や資源循環だったので、デザインを専門にする学生にも参加をお願いして、10名くらいの学生を連れて調査をしたり、熊野の方々にも入ってもらってワークショップを開催しました。調査は地元の農家や製材所、名産を作っておられる会社などを、インタビューして回りました。20以上は回ったと思います。次に学生と地元の方々でグループを作り、何が問題か、何をすべきか、という議論をして、取り組むべき事業を提案してもらいました。その結果は「熊野の森から」という小さなリーフレットにまとめて配りました。
ーーそれから、どんなことをnojimokuとされてきたのか、教えて下さい。
高口 nojimokuさんとやってきたことは、ワークショップで出た提案を一つ一つ実行に移している感じです。最初に実現できたのは、花の岩屋神社で大黒柱祭という神事のプロデュースでした。これは製材所が単なる部品供給者に留まらず、熊野のストーリーを直接施主に届け、熊野に来てもらう工夫として、大黒柱を奉ってお祓いしてもらい工事の安全と家族の健康繁栄を祈る祭事としました。いわば二次産業からの六次産業化をねらったわけです。最初は研究室が参加したエコ住宅のコンペの大黒柱でやりましたが、その後銀座の鮨屋さんに納めるテーブルが続いたと聞いています。ほかにも子ども向けの知育玩具の開発をしたり、現在、取り組んでいる空き家の民泊利用も、皆、最初の熊野の方々と考えたアイデアにあったものです。
ーーnojimokuさんとの付き合いを振り返って、思い出される印象的な出来事などありますか?
高口 活動を続けていくうちに、どうやら他の大学も熊野地域の研究をしたり、支援をしたりしている事が分かりました。熊野の地元でこういった活動に協力されている方も重なっていることが多い。ところが横のつながりがなくて全然情報が入ってこない。じゃあ、地元への報告会的なものは、どこの大学もやるだろうから、大学側も地元の方も、それが1回で済めばみな喜ぶだろうと、当時伊勢志摩で行われたサミットに便乗して熊野サミットを開始しました。早稲田や三重大、近大など5つの大学が合同で成果発表しようと始めましたが、そうこうするうちに地元の方の活動も、地元の人は全然知らないということになって、大学だけではなく、地元の人の活動も含めた報告会になりました。サミットはその後、アイデアを出したり、この指止まれ的な発表をしてもらったりと、報告会に留まらない会に拡がりました。
ーーこれまで一緒にいろんな活動をされてきた視点から、nojimoku「らしさ」と言えばなんですか?
高口 これはいつも言っていることなのですが、nojimokuさんの工場を最初に見学させてもらったとき、80歳くらいのお婆ちゃんが、板材の節を埋木する作業を黙々とされていました。普通の会社であれば、とっくに定年を迎えているはずですが、できる事があれば働き続けられる。どんな人でも何かできることはあるもので、場をちゃんと作ってあげる。だからこそ地域で愛される。そういう姿勢がnojimokuさんの芯としてあるように思います。
林業界という視点から言えば、規模としては中堅クラスだと思うのですが、知る人ぞ知るユニークな製材所だと思います。うるさ型の建築家から指名で発注があるような製材所はそう多くはありません。他の製材所がやらないことをやる。できることをやる。それを真摯にやっている。付き合い出して間もない頃、自宅でロフトをDIYで作ろうと、根太と床材を送ってもらいました。既存の梁の間に根太を入れるのですが、Just in Sizeでも送れますというので、こちらで寸法を計ってそれを送りました。しばらくして届いた材は、長すぎず短すぎず、削ったりすることなく、スポッという感じで納まってちょっと感動しました。そういうことの積み重ねが、今の立場を作っているのではないかと思います。
ーーnojimokuに、今後期待することはなんですか?
高口 市場に左右されない付加価値の高い製造業に成長して欲しいと思います。皆さん、あまり知られていませんが、日本の木材市場は昭和39年、1964年に丸太や主要な製材の関税がゼロ、完全自由化されています。国産材の値段を上げたくても、外材より値段が高いと外材にお客が流れるのでそれ以上にはできない。グローバルな資材です。一方で、日本の山には木が沢山ありますので、供給過剰気味になりがちな状況です。つまり価格は低下圧力の方が強い。デフレ産業なわけです。こういう状況では、他と同じことをしていても、価格は下がる一方ですから、別の道、付加価値の高い唯我独尊路線を見つけないといけない。挑戦を続けて欲しいと思います。
ーー最後に、nojimokuと、これからどんなことをやっていきたいですか?
高口 実は現在の日本の製材業の大きな問題は、安定供給能力です。建設産業にもやや季節性があり、木材の伐採にも季節性があります。このズレが大きいと需要があっても供給できないことがある。また、伐採には補助金がつくことが多いのですが、これは行政の予算が決まっているので融通が利かない。ここ数年、ウッドショックと呼ばれる木材価格の世界的な高騰がありましたが、伐採量を増やせば山主はもっと儲かったはずですが、作業道を付ける補助金が決まっていて柔軟には対応できなかった。人材もいない。それぞれの地域が地元に大きな土場を持ち、数年分の需要に対応できる在庫を置くことができれば、こういった事態にも迅速に対応できたはずです。天然乾燥の役割も果たせて省エネにもなる。こういった仕組みを成立させるための補助的な仕組みとして、バイオマスのエネルギーを活用したり、あるいはJクレジットのような仕組みを使ったりすることも必要です。人も伐採専業とするのではなく、製材や建設といった他分野もできて行ったり来たりできるようにする。製材のすぐ近く、周りにある可能性にチャレンジするようなことを手伝いたいと思っています。