HISTORY

野地木材から
nojimokuへ

変わるもの、変わらないもの

2023年5月、野地木材工業はあらたにnojimokuへと名前を変えました。これは、新しい時代を切り開く私たちの決意の表明であり、また代々受け継がれてきた魂を次の時代に引き継ぐ覚悟の表明でもあります。私たちはどこから来たのか。何者なのか。そしてどこへ行くのか。変わるものと変わらないものへの想いをまとめました。

nojimokuは、地元熊野市を拠点に、三代にわたって製材業を営んできました。熊野を愛し、つくることにこだわる、その姿勢はずっと変わりません。しかしその間、社会が変化し、林業もまた大きく変化しました。その中で、私たちの姿も確かに変わってきています。従業員数、事業、主な商品…。ここでは、その変化の軌跡をご紹介します。

名前が変わる。
想いはつづく。

つくって生きていく

1963年に設立された野地製材所から、nojimokuの製材所としての歩みが始まりました。創業者の野地久弥は「自らつくる」精神のもと、製材機械の整備・改良や、ノコの目立て自前化、パソコンのいち早い導入など、多くの挑戦を行いました。新たなことに果敢にチャレンジし、ものづくりにこだわるnojimokuの精神はこのときに形作られました。

この精神は1993年に2代目の野地洋正に受け継がれ、野地木材工業株式会社として法人化。「品質と生産を安定させる」をテーマに、製材所の工業化を目指してものづくりのレベルを高めることに挑戦しました。当時、構造材を主体として製材していた中で、いち早く内装材の製材に着手。生産品目の幅を拡げるだけでなく、内装材加工、仕上げ、塗装工程も自前化し、つくることができるものの幅や深さが広がっていきました。環境が大幅に変化する中、ものづくりを手放さなかったからこそ、いまのnojimokuの広がりと技術があります。

現在、nojimokuの仕事はさらに広がり、既存の製材所の幅に収まらないものになりつつあります。建築家、デザイナーとのオリジナル製品開発、リノベーションや設計・施工、また地域の木育活動や教育イベントの企画、林業ボードゲームの開発……等々。サービスやプロダクトをつくるだけでなく、nojimoku の「つくる」は「ひとづくり」「ことづくり」にまで及んでいます。つくることにこだわりを持ち、それを最大限おもしろがっているからこそ、人との繋がりと仕事が生まれる。時代に合わせアップデートしながら、nojimokuの精神をしっかり受け継ぎ、進んでまいります。

chainsaw

熊野と林業全体を考える

過去を振り返ってみると、nojimokuはずっと無我夢中で走り続けてきました。戦後間もなくの住宅建築ラッシュの中、製材業を始めたのが遅かったこともあり、手強いライバル製材所がひしめく中でどのように生き残るか、毎日必死でもがいてきました。果敢に新しいことにチャレンジしていく精神も、自らつくることへのこだわりも、後発の小規模製材所としての生存戦略の中で生み出されたものの一つです。

しかし、がむしゃらに走り続けているうちに、時代はどんどん変わっていきました。その変化とは決してポジティブなものではありません。木材需要が低下し価格も下落、中小零細の製材所は姿を消していき、製材工場は大規模化する以外生き残ることが難しくなっていきました。熊野地域の人口もどんどん減り、かつての賑わいは失われ続けています。

創業から長い時が過ぎ、ふと周りを見渡してみると、私たちnojimokuはいまや地域を、そして林業の未来の一端を担う立場になっていました。
創業以来なんとか生き残ることだけを考えて走り続けてきましたが、いつの間にか私たちは熊野地域と林業を担う、責任のある立場となっていることに気づきました。

これからは期待を寄せてくれる皆様の想いに応え、先人たちの精神と土地を引き継ぎ、熊野と林業の全体を考えて進んでいかねばならない。多くの人に支えられ、自然の中で生かされてきたことに感謝し、より大きなビジョンを持って、時代を歩んでまいります。

chainsaw

山・地域とともに、未来へ

新たな時代を迎えるにあたって、改めて、自分たちが熊野という地域とともにあることについて考えました。日本全国、世界各地には魅力的で素敵な場所、地域がたくさんあります。もしかしたら、熊野とともにあり続ける究極の理由などないのかもしれません。しかし熊野には長年大切にされてきた山があります。聖地として人を惹きつけてきた歴史があります。そして、この地で共に歩んできた人との繋がりがあります。熊野を想う理由は、それで十分です。
nojimokuは、新たな時代にこの営みを続けていくために、山を、林業を、地域を見据えながら、私たちはこの地でつくり続けます。山・地域とともに、未来へ。