nojimokuの工場と事務所のあいだには、日々たくさんの「段取り」が流れています。
注文を受ける営業と、製品をつくる現場。そのあいだをつなぐのが、生産管理という仕事です。
今回お話を伺ったのは、社長の大学時代の友人でもある樋口さん。
熊野に移住し、営業や工場勤務を経て、現在は生産管理を担当しています。
怒鳴られることもあり、戸惑うこともありながら、気づけばnojimokuに入って10年。
今では、熊野での暮らしにも満足していると言います。
なぜ、ここまで続けられたのか。
その理由を、ゆっくりと伺いました。

生産管理という「段取り」の仕事
――社長からは工場と事務所をつなぐ「スーパーサブ」的な役割と伺っていますが、どのようなお仕事をされているのでしょうか?
nojimokuには、大きく分けて「注文を取る事務所の営業スタッフ」と「工場で製品を作る現場スタッフ」がいます。
その間に生産管理として、専務と私の2人が入っています。
また私自身、正式には品質管理ではないんですが、専務が1人で品質を担当しているため、そのサポートにも入っています。
結果として、生産管理と品質管理の両方を担当しているような形です。
――一言で「管理」といっても、さまざまな業務があると思います。具体的にどのような業務を担当されているのでしょうか?
モノの品質や性能という意味での「作り方」ではなく、「段取り」の管理ですね。
nojimokuは小さい工場が点在していて、モノの移動が非常に多いんです。
大きな工場なら、材料を出してすぐに出荷というように、一つの場所で完結するところもあります。
しかしnojimokuの場合、倉庫から工場へ運んで乾燥させ、また別の工場で加工し、さらに運んで塗装して……というように、工程ごとに移動が絡んできます。
たとえば「材料を誰がいつ運ぶか」「次工程へいつ渡すか」などを決め、移動を含めた工程の段取りを組むのが私の主な仕事です。
――工程とともに移動が絡むとなると、とても複雑に感じます。たとえば、スプレッドシートやExcelなどを使い、誰が見ても進捗がわかるような管理をされているのでしょうか?
専用のシステムを使って管理しています。
私が入社した10年前には前身となるシステムがあり、それをマイナーチェンジしながら現在でも使っています。
実は、そのシステムを構築したのは社長なんです。
社長はちょっとオタクっぽいところがあって、そういうのを作るのが得意なんですよね。
ただ、移動などシステムだけでは賄えない部分もあります。
塗装や加工は外注することもあれば、材料を外から購入することもあるため、なかなか自分のところで完結しないんですよね。
そういった外注先や購入先とのやり取りは、私が担当しています。
――現場となると、自分よりも年上の大ベテラン相手に仕事をすると思いますが、気を遣ったりしませんか?
意外とそうでもないんですよ。
仕事が属人化しないように、会社が意識的に業務のフォーマット化を進めています。
そのため、現場の考えをうまく汲み取らないとモノが作れない、ということはありません。
次の作業が決まっている工程も多いので、口頭で指示を行うことは少ないです。
――結構仕組み化が進んでいるんですね!生産管理って、頭を下げて「何とかやってほしい」と頼むようなイメージがありました。
もちろん、最終的に頭を下げる場面もありますが、なるべくそうならないように取り組んでいます。
「ふざけて入れてよ」から始まった移住と入社
――もともと、社長とは大学の同級生だと伺いました。
はい、もっと言えば大学のサークル仲間でした。
ちょうど10年前、私が東京にいて転職を考えていた時期に、彼が出張で東京に来ていたので飲むことになったんです。
その席で転職の話になって、ふざけて「入れてよ」って言ったら入れてくれた、みたいな感じです。笑
――思わぬ展開ですね!その当時から「いいな」と思う魅力があったということでしょうか?
はっきり言って、仕事は何でも良かったです。
「木が好きだから」「熊野が好きだから」というわけでもありませんでした。
10年経った今では木も好きになりましたが、当時は熊野がどこにあるかも、彼が何をしているのかもよく知りませんでした。
ただ、社長は僕の持っていないパワー、「0から1を創り出す能力」があるんです。
私は「既にある1を2や3に成長させる」のは得意ですが、0から1のアイデアを出して「やってみよう」と始められる社長の姿は、学生時代から「すごいな」と思って見ていました。
なので「nojimokuで働きたい」というよりは、「彼と一緒に働いたら面白そうだな」という感じでしたね。
――このインタビューのテーマが「nojimokuで働くって大変ですよね?」なのですが、そのコンセプトを出すまで2時間ほど社長とオンライン会議をつなぎっぱなしにしていました。それぐらい、社長は「やってみよう」が好きな方ですよね。
逆に飽きたらすぐに辞めてしまうので、「え?」と思うこともありますけどね。笑
それでも、自分にはないものを持っているなと感じます。
私が現在担当している生産管理の仕事も、仕事の種類の中では一番向いている気がします。
営業のようなお客さん対応も割と好きでしたが、それと比べると今の橋渡し的な役割の方が好きですね。

「見て覚えろ」文化への戸惑いと乗り越え方
――生産管理のお仕事は、入社以来10年間ずっと担当されているのでしょうか?
いえ、入社当初は営業でした。
私自身、東京で営業をしていたこともあり、工場で「労働者」みたいな働き方をするイメージも全くなかったですし、どちらかというと嫌だと思っていました。
会社は万年人手不足なので、私が入社したときも「入るなら早く来てほしい」という感じでした。
産休に入る方で欠員が出たということもあり、その流れで営業への配属が決まりました。
でも、営業時代はずっと大変でしたね。
まず、関西弁そのものに馴染みがなく、最初は言葉がわかりませんでした。
同僚も取引先も、当然ながら関西出身の人が多く、言葉が聞き取れなかったですね。
あとは、業界用語の壁です。
私は以前、通信業界で法人営業をしていたんですが、そこでは「専門用語を使うな」「小学生でも分かるように説明しろ」と育てられました。
専門用語を使うのは「できないやつがやること」と言われるぐらいです。
ところが製材業界では、お客さんも工場の職人も、こちらが専門用語(建築用語や尺貫法など)を知っている前提で話してきます。
もしわからなかったら、怒られます。笑
そのため、nojimokuがというより、業界に適応する大変さはありましたね。
――その大変さをどうやって乗り越えられたのですか?
正直、気持ちの切り替え、とかでどうにかなる問題ではなくて…。
ただ、辞めるという選択肢は私の中にありませんでした。
前の会社の人たちもいい人だったので、特に不満はありませんでした。
それでも転職をしたのは、ただ変化が欲しかっただけなんですよね。
なので35歳前後で移住までして、さらには友達の会社に入れてもらったのに「大変だから辞める」というのは違うなと。
「いつか大変じゃなくなるだろうから、それまで頑張るか」みたいな感じで続けていたら、生産管理になったころから変わりました。
6〜7年はかかったことになりますね。
逆にもし、東京で転職して同じ目に合っていたら、とっくに辞めていたと思います。
私は「強いこだわりがない」というか「何でもいい」という性格なので、「分からないまま伝えて怒る人たちがいる業界なんだな、へえ」みたいな考え方ができるんですよ。
とはいえ工場で働いていた時は、怒鳴られてもいましたし、メンタル的にしんどい時期もありました。
それでも、会社を辞める気はありませんでしたね。
でも「工場で修行するのをやめさせてくれ」とは言いました。
ただ「それだと舐められるから、もうちょっと続けてみろ」と言われて。
そのまま続けていたら、どこかで乗り越えました。
――それが今では、工場と事務所をつなぐ重要な存在へなられたという。
工場も事務所も、両方ガッツリできる人がいないんですよ。
それは能力的にという意味ではなく、どちらの立場も理解できる人間が自分しかいないというところから、生産管理になりました。
営業は5年ほど続けましたが、私の中ではこのまま続けていくと思っていました。
しかし、事務所にいると製品のことはわかる一方で、それをどう作っているのか、作るときにはどんなことに注意しなければいけないのか、という本質部分が見えてこないとも感じていました。
どうしても忙しくて、目の前の受注業務にかかりっきりになってしまうので。
そう感じていたタイミングで、工場でちょっと修行しようと声が掛かり、2年ほど工場の中に入りました。
現在の生産管理は、3年ほど担当しています。
どちらの現場も知っているので、最初の営業の5年間に比べたら、工場の人から「何言ってんの?」と言われることも減ったなと感じています。

熊野での生活と「丸」な現在地
――現在の生活と仕事を含めて、ここまでの暮らしを総括すると〇△×のどれになりますか?
今は「〇」ですね。完全な丸です。
――素晴らしいですね!一方で、東京と熊野では利便性が大きく異なると思います。物足りなさは感じませんでしたか?
めちゃくちゃ感じました。
ただ、それも私にとっては「どうでもいい」ところでした。
もちろん便利なら便利で嬉しいですが、不便なら不便なりに生活できてしまうんですよね。
買い物も、Amazonや楽天を使うので不便さを感じません。
ただ、外食チェーンのお店が本当にないです。
あるのは、すき家とモスバーガーぐらいでしょうか。
小さな子どもがいるので「ファミレスに行きたいな」と思っても、隣の市まで行かないとない。
そこは「あったらいいのにな」と思います。
あとは交通の便の悪さですね。
空港も新幹線の駅も近くにないので、出張などで移動するのがとにかく大変です。
――逆に、熊野にしかない良さはどこにあると思いますか?
小さな町なので、どこへ行くにもパッと行ける距離感なのは良いですね。
先ほど「どこへ行くのも不便」と言いましたが、熊野を出ずに生活する分には、何とかなると思います。
きっと、熊野で生まれ育った人たちはそういう感覚なんだろうなと。
満員電車で通勤することもない。
魚は美味しいし、星は綺麗だし、海も近い。
子育て環境としては非常に良いですね。
たぶん、東京にいたら子どもを作っていなかったかもしれません。
もともとは、夫婦そろって子どもが欲しいという考えでもなかったので。
東京で実際に子育てしたことがないのでわからないですが、熊野の方がだいぶ育てやすいんじゃないかとは思います。
――移住という大きな決断でしたが、迷いはなかったのでしょうか?
雑に言ってしまうと、当時はあまり考えてなかったんです。
私はよくも悪くも執着しない性格で、「ノリ」だけで決めてしまったというか。それが先ほどの「仕事は何でもよかった」という話にもつながっています。
とはいえ、仕事は「東京で前の会社に居続けるより面白くなる可能性が高い」と感じていました。
一方で「生活の場所は関係ない」と思っていました。
楽しくするも、つまらなくするも自分次第だなと。
妻が背中を押してくれたのも大きいです。
当時はまだお付き合いしていた妻が、海の近くに住むのが昔からの憧れで。
nojimokuに来ると決める前に、社長が「こっちに来ても何もないから、今の彼女と一緒に来た方がいい」と言ってくれ、一度二人で遊びに来たことがあります。
熊野が海の町であることも知らなかったんですが、行ってみると目の前に海があったんです。
そうしたら、妻がそれを気に入ってくれた。
妻自身も場所はどこでもいいという人なので、「ついて行ってもいいよ」となり転職と移住が実現しました。
なので「仕事が面白くなりそう」「奥さんが後押ししてくれた」という2点だけで、あとはどうなろうがどうでもいいわ、みたいな感じで来ちゃいました。
――それが結果として、今の「丸」な生活につながっているんですね。
そうですね。
移住した当時、周りからは「思い切ったことをした」「すごい行動力」と言われました。
自分の中では、大したこともしていないという印象なんですが。
悪いことが起きれば後悔するでしょうけど、良いことがあっても「よかったね」となるだけですから。
結果として、今は良かったなと思っています。
まとめ
「いつか大変じゃなくなるだろうから、それまで頑張るか。」
そう言って続けてきた時間は、気づけば6〜7年。
営業も工場も経験したからこそ、今は両方の立場がわかる。
だから自然と、生産管理という役割にたどり着いたのかもしれません。
移住も転職も、「ノリだった」と笑います。
それでも振り返れば、今は「完全な丸」。
特別な覚悟があったわけでも、綿密な計画があったわけでもない。
ただ、そのときどきの選択を引き受けて、続けてきただけ。
「楽しくするも、つまらなくするも自分次第。」
その言葉が、この移住をいちばん表しているように感じました。

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